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まるまるこふこふ

数々の次元が崩壊し、全ての生命が塵と化すのを見てきた。私ほどの闇の心の持ち主でも、そこには何の喜びも無かった。

もし山月記の李徴がITエンジニアだったなら

 意識の高い情報工学科の学部生の李徴は博学であり、新卒の就職難が叫ばれる昨今の世の中、大手のSIerに新卒入社し、ついでSEに任命されたが、性格は非常に懐疑的で自意識過剰、サラリーマンのままでいるのに我慢がならなかった。

 いくばくもなく「多重下請け構造の中では手を動かす人間は尊重されない。より自分の技術力を磨ける環境に身を置きたい」と退社をした後は、Webサービス系ITベンチャーに入社し、それまでの人間関係と親戚付き合いを絶って、ひたすら一流エンジニアを目指した。SEとして長く膝を愚鈍なプロジェクトマネージャと技術力の低い同僚の前に屈するよりは、実際に手を動かすエンジニアとしての名を後世に残そうとしたのである。

 しかし、Githubのスター数はおろか勉強会の発表でも大して注目を浴びず、ベンチャー特有の長時間残業に精神を切り崩して続けている生活は日を追って苦しくなる。李徴はようやく焦りはじめた。この頃から、容姿には一切気を配らなくなり、頬はこけおち目には深い隈が刻まれギョロギョロと落ち着きがなく、かつて自信に満ちた面持ちでシリコンバレーOSSコミッターの話を勉強会後の懇親会でしていた頃の青年の面影は、どこに求めようもない。

 数年の後、長時間労働は一向に減らず、会社の事業全体が市場で淘汰され始めたのもあり、遂に節を屈して転職サイトに登録し、派遣社員として他の企業の出向先で仕事をすることになった。一方、これは自分の技術力の才能に半ば絶望したためでもある。かつての同輩は既に結婚したり子供がいたり、仕事でも遥かにキャリアを積んでいて、彼が昔、鈍物として目にもかけなかった技術力の低い連中の命令をきいて正社員でないと言う事実に耐えなければならぬことが、誇り高い李徴の自尊心をどれほど傷つけたかは想像に難たくない。

 一年の後、親戚の法事で草津の旅館に宿った時、遂に発狂した。ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま庭に飛び降りて、闇の中へ駆け出した。彼は二度と戻って来なかった。警察が付近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

 翌年、大手製薬会社のIT部門で社内SEとして仕事をしていた袁傪という者、仕事の都合で那須のホテルに宿った。次の朝まだ暗いうちに外を散歩しようとしたところ、フロントのホテルマンが言うことに、これから先の道に不気味な化け物が出るので、白昼でなければ外を出歩かない方が良い。今はまだ朝が早いから、もう少し待たれたほうがよろしいでしょうと。袁傪は、しかし、こんな時代に化け物なんて出るわけないじゃないかと、フロントの言葉を聞かずに、出発した。

 残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、なんと一匹の大きな虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、さっと姿を翻して元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。その声に袁傪は聞き覚えがあった。びっくりしたけれども、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。

「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

 袁傪は李徴と大学の同じ学科の友人同士であり、サークルや研究室でも友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁傪の性格が、懐疑的な李徴の性格と衝突しなかったためであろう。叢の中からは、しばらく返事が無かった。しのび泣きかと思われる微かな声が時々洩れるばかりである。ややあって、掠れた声が答えた。

「如何にも自分は李徴である」と。

 袁傪は恐怖を忘れ叢に近づき、懐かしげに再会を祝った。そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。

 自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと友人の前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に「意識の高い発言を繰り返しながら、結局何者にもなれなかったんだな」と思わせるに決まっているからだ。しかし、今、図らずも親友に逢うことができて、恥ずかしさも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんのちょっとでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、かつて君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。